災害に想う 開業してできなくなってしまったこと

2024年はお正月から大地震と飛行機事故が起き、痛ましいスタートになってしまいました。お亡くなりになった方々のご冥福、そして被災し今も苦しんでいる方々の生活が一刻も早く改善することをお祈り申し上げます。

 

さて、開業して自分の診療所をもつことで、分かり合える仲間たちと、自分たちの思い描いていた診療を目指すことができます。実際はまだまだ道半ばですし、不十分だと感じていますが。組織に勤めていた時にはできなかった多くのことができるようになるのですが、逆に、開業してできなくなってしまった活動もあります。その代表格が被災地支援です。

私(院長)はこれまで、いくつか被災地での支援活動に参加してきました。東日本大震災の時はいわゆる「こころのケアチーム」とそれに引き続く支援活動を数年間、熊本地震の時には「DPAT」とし発災後の急性期に、被災地域でのメンタル・ケア活動に従事してきました。

被災地では、難しいことはさておいて、目の前で困っている人、辛い気持ちの人を助ける、という医療の原点に立ち戻った診療を行うようにしてきました。ある意味、医師を志した一番はじめの気持ちが強く刺激される活動なのだと思います。それから、いつもの安全で快適な暮らしを安穏と送りながら、大変なことが起きている現場から目を逸らしているような自分が許せなくなってくる。そういった気持ちから、必ずしも良いことだとは思わないのですが、災害が起きると、使命感が湧いてきて、被災地に向かう部隊に我先にと手を挙げてしまうのでした。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/245195/

http://ijimemental.web.fc2.com/sinnbunn12.2.21.pdf

https://cue-tv.net/program/medical_health/tu_kouza_08/movie_03.html

(上記は過去の災害時の新聞報道、シンポジウムでの講演などになります。)

 ↑熊本DPATの活動時のものです。被災地に迷惑をかけてはいけないので、毎日福岡県久留米市から熊本県益城町まで往復していました。

 

お正月の能登地震。宮城県からもDPATを派遣することが報道されました。東日本の時から共に被災地に赴いた仲間や後輩の顔がそこにはありました。先生方、頑張ってきてくださいね。

 

開業してみて、一番大変だと分かったことは、決して持ち場を離れられないということです。自分がいないと、診療所が止まってしまいます。被災地にどんなに駆けつけたくとも、それはもう、できない。(多くのスタッフを継続的に派遣なさっている原先生の活動にはただただ頭が下がります。皆でいろんな貢献をできるようになるために、たくさんの人が働く職場にしていけると嬉しいです。)仙台の職場にいて、毎日いらっしゃる患者さんのお手伝いをすることこそが自分が果たせる役目だと思ってはいるのですが、それでも、被災地とは無関係であるかの如く過ごしていると、忸怩たる思いと言うか、無力感と言うか、さまざまな感情が去来します。

熊本地震の時には、実際の被災地の状況をよくご存じない司令部の指示で、現場が酷く困惑した一コマがあり、松本先生がその混乱を収めていらっしゃいました。東日本大震災を経験したからには、伝えられることもあるものです。今回も、少しずつでも被災地で得た経験をお返ししたかった。

 

・・・このように、いろんな気持ちや考えが浮かんでくるのですが、申し上げた通り、自分に一番できることは、仙台で目の前の患者さんのお手伝いをすることです。被災地への思いは温めておき、今できることに大事に向き合っていきたいと思います。

 

宮城県の皆さんは誰しもがご存知の通り、被災地での活動、そして復興への道のりは持久戦、マラソンです。末永く、血の通った支援が届くことを願って止みません。